2012年10月 3日 (水)

母指球ball of the foot

昨日の朝、素足で歩く時に急に母指球がゴムまりのようになりました。右足が床に着地しようとする瞬間、勝手に力が入って母指球が張り出し、着地の衝撃を吸収するのです。頭で考えてやってるのではありません。母指球、つまり足指の付け根から着地すればドスンと音がするのが当たり前だったのに、朝起きたらまるで右足に意識があるかのように、勝手に先述のような動作をしたのです。これまでは静かに歩くのに結構つま先を使っていたのですが、歩き方のバリエーションが一つ増えたかのような感じです。
私は小さい頃から足腰が弱く、父親も母親も扁平足という家系に生まれたため(当然自分もそう)走ったり跳んだりという動作は全くの不得手で、「遺伝だから仕方がない」とあきらめていたのですが、もしかしたらこれで扁平が治るかもしれないと思うほどに、この右足の変化は劇的であり、今まで一度も体験したことのない感覚でした。
ところが左足の方はどんなに頑張っても右足のように働いてくれません。右足を踏む時は音がしないですが、左足はドスンと音がします。片方だけクッションの効いたバスケシューズを履いているような感じです。
この、衝撃を吸収する足と吸収しない足の違いはいったいどこにあるのでしょうか。右足は、直立して体重が掛かっている間それに反発するかのように軽く力が入り、バランスを取っているような感じです。一方の左足は、意識的に母指球を押し出そうとしてもうまく力が入りません。
というわけで昨日は急遽ヨガのスタジオに行ってきました。アシュタンガヨガのクラスです。今日、体に大きな変化が現れたにも関わらず、いつもとあまり変わりがないように感じられました。強いて言えば腰のバネがいつもより利く感じがしたぐらいです。
ヨガに行った次の朝身体の変化に気づくことも多いので、「明日朝起きたら、左足はどれくらい変わるのかなあ」と、それが楽しみで仕方がなく、いつもより熱心にポーズに集中しました。
そして今朝、起きて恐る恐る歩いてみると、微妙ではありますが左足の感覚が変わってきたようでした。
そこで、戦士のポーズというのをやってみると、骨盤のあたりがボキボキ!って。気持ちよかった〜。ちょっと脚の角度が変わったような気がします。
まだまだオートマチックに、という訳にはいきませんが、意識すれば母指球にかなり力が入るようになりました。そして右足の方は、さらに安定感を増したように感じられました。ゆくゆくは左右差を感じないところまで持っていきたいところです。
まったく、人間の体は不思議なことだらけです。何がどこで役に立つのかわかりませんから、これからも様々なことに挑戦し、精進していきたいと思います。

2012年9月15日 (土)

腰が大事

8月の全国大会、大会直前は本当に真剣になりまして、仕事帰りのほぼ毎日泳いで(といっても週に5日ぐらいですが)、…まあ、その甲斐あってと言いたいところですが残念な結果に終わってしまいました。
けれども、風邪を引くこともお腹を壊すこともなくいい状態をキープできましたので、そのまましばらくプールに足繁く通いました。まあ、プールに行かないとやってられないくらい暑かったのですが…。


というわけで、期せずしてプール漬けの日々をこの夏は送ったわけですが、集中的な練習というのはやはり効果があるのか、以前に比べて体質が変わったような気がします。練習内容は混雑する夏季の区民プールでは思ったような練習も満足にできず、ビート板を使ったキック、プルブイを使ったプル、スカーリングが中心でした。

ビート板などを使用せずに立体系の泳ぎで泳いだ方が運動量は多いです。なぜスカーリングなのかといえば、通常の稽古やプルだと単なる反復運動で、当然のことながら力を入れる時と抜く時ができます。それに対してスカーリングはスパイラルもしくは8の字運動ですから、腕を支持する肩周りの筋肉や広背筋が常時収縮状態になります。このことに気が付いて敢えて型を無視したトレーニングを行ってみたという次第です。振り返ってみれば正直、ものすごく楽でした。

このスカーリング、意外と疲労感は少ないのです。最初慣れるまでは辛抱ですが、シンクロをやっている人たちは延々とスカーリングだけで泳ぎ続けることができます。ようは指の力です。人間はサルから進化したわけですから、もともと木にしがみつくのに使っていた筋肉が太古の昔を思い出せば、長時間収縮力を保つことができるのではないかと思います。

そんなルーズな練習でしたが、いくつか思い掛けない収穫がありました。
収穫の一つは神伝流の游方「真」の要領がどうにか掴めたことです。先日、游方「真」で泳いでいたのですが、その時、足を煽る時に腰骨に独特な感覚があり、「じゃあ、この状態をキープしたまま足を引き付けてみたらどうなるんだ?」と思ったことがきっかけでした。通常は、足を引き付ける時は腰の力を抜きたくなるのが自然な感覚ですし、また、思いっきり力を込めようとして反動をつけようとすると、腰の力をいったん抜いて次の瞬間に力を込めるというのが人間の足の自然な使い方です。たとえば、子供がサッカーボールを蹴る時はこんなふうな力の入れ方になります。

さて、思いついた通りに腰を引き締め、その力を維持したまま足を引き付け、次に足を煽ってみますと面白いことに、びっくりするくらいスーッと前に進みますし、また引き付ける際の水の抵抗も少なくなったのです。ということは、足を煽る事自体は無意識的に惰性でできるようになりますので、いったん足に覚え込ませてしまえば、あとはただ腰回りの筋肉の微妙な力配分にだけ集中すれば良いということになります。ただ、これを毎回毎回持続するというのは結構難しいです。ちょっとでもバランスが崩れたらすぐさま修正を計らなくてはいけないからです。ずっと集中力を維持していなければならず、難易度の高い技です。

腰に意識を集中するとどういうわけかお尻が沈んでしまうことがなくなり、水面近くの一番あおりの効く層の水を水平に挟むことができます。常に足先が水面近くにありますから、結果的に「かかとが水面から出る」ような姿勢が楽に取れます。

これはまた、よく言われる「船底を作る」ということにも通じると思います。結果的に、息を吸う時も吐く時も、足を煽る時も引き付ける時も、肩から腰までのフォーメーションが変らないことになるわけですから、これはまさしく「船底」なわけです。ここでの課題は足を煽った時の衝撃で船底の形が変らないようにすることです。自分の脚の力に船底が負けないようにするわけです。


きっと、うまく泳げなかったり上達が滞ったりするのは、たぶん、自分のどこかに気付きの足りない部分があるということなのでしょう。自分の生まれつきの体格や特質がネックになっているケースがほとんどだと思いますが、そういう場合でもどこかに糸口があるはずです。「こういうふうに泳いでやろう」と思いながら泳ぐのではなく、「絶対見つけてやるぞ」と全身に意識を注ぎ注意を払って泳げば、自分に合った練習方法にたどり着けるのだと思います。
「あきらめるな」「目標を持て」とはよく言われることですが、本当は「目標」ではなくて、「戦略」を胸に抱くことが必要なのかな、と思います。

いつも泳いでいる、慣れた泳ぎでも細心の注意を払うことを心掛け、さらに精進したいと思います。

2012年8月19日 (日)

全国大会2日目

19日、昨日は雷鳴が轟く中の幕開けでしたが、今日は澄み渡った青空の下、全国大会の2日目が開かれました。
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第2日目は一般の観戦者も少ないながら訪れ、またTV録画も行われ、大いに盛り上がりました。

さて、西高東低かに見えた団体競技ですが、開けてみれば1位が水府流、2位が水府流太田派、3位が神伝流東京と、1位から3位までを東日本勢が占めるという予想外な結果となりました。
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上位3組とも美しさの中に力強さを秘め、洗練した泳ぎを披露してくださいました。西日本の強豪を打ち破ったことは、地の利があったとはいえ、同じく東日本の向井流としても嬉しいことです。これで東京都の大会も一層盛り上がることでしょう。

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2012年8月18日 (土)

第57回日本泳法大会

第57回日本泳法大会、ひそかに開催中です。

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一応一般の観戦も可能、レーシングプログラムは1部1000円となっております(笑)。

開会式にはロンドンから帰ってきたばかりの鈴木大地さん(大先生?)が祝辞。トロフィーを預かっておりました。

競技と資格審査が行われています。

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こちらは資格審査の風景。

団体競技の風景は明日載せますが、我がチームは2回戦で敗退、気合を入れて練習に励んできたのですが、やはり西日本のレベルの高さに圧倒されました。泳法界も西高東低?なのかもしれません。


関係者の皆様ご苦労様でした。また明日もよろしくお願いします。

2012年7月21日 (土)

扇り足の練習法

扇り足の練習方法についての覚え書きです。清記流H先生の実演で思い出した練習方法を(4)に記します。長くなるので要点のみです。

(1) ビート板を使い、頭をビート板に乗せ、下になった腕を前に伸ばし下からビート板の先を掴む。この状態で上になった足を前に、下になった足を後ろに、足遣いを覚える。


(2) ビート板を外し、下側になった腕を真っ直ぐ進行方向に延ばし、足だけで進むようにする。目線は後方を見る。通常だと足の扇りで崩れた態勢を手で修正したくなるが、初めから態勢の崩れない扇り方の修得を目指すようにする。いつも「弱い弱い」といわれているとそちらの方ばかり注意が行ってしまうが、足だけで真っ直ぐに進み、いつも顔が水面から出る状態を目指す。
手を使うと、人間は手の動きに合わせて息継ぎをしたくなる。古式泳法では呼吸が最も大事なので、この練習で呼吸を手足の動きに連動させない習慣を身に付ける。ここで呼吸の癖を取り除いてしまうと以降の練習が楽になる。


(3) 通常だと「得手」と言って自分の得意な側ができてしまう。利き足・得手不得手がなくなるように左右どちらの側も偏りなく練習する。手を付けると一重伸略体の形になるが、口ではなく極力鼻で息をするようにする。


(4) どちらの側も同じようにできるようになったら、両扇りの練習をする。ビート板を使い、正面を向いて足を交互に扇る。底の方の水を扇る立体に近いやり方と、腰を浮かせて水面近くを扇る平体に近いやり方があるが、最初は平体(身体を伏せて)を練習する。
これをやってみるとやはりどちらか自分の苦手な側があることが分かる。この理由は様々だが、これを克服するコツはやはり呼吸にある。人間は息が苦しくなることに対して恐怖心を持っている。だがどんなに息が苦しくなっても呼吸を乱してはいけない。下腹部の力を一瞬たりとも抜かず、胸・肩を上手く使い静かな呼吸をする。自分の意志で呼吸のパターンを打ち破り、呼吸に自分が支配されるのではなく、自分が呼吸を支配できるように練習する。自分に勝つことでようやく本当の意味でどちらの足も自在に使えるようになる。

この練習方法は大変効果的で、左右差がなくなることで泳ぎがきれいに見える。得意な方ばかり練習するのでは、幽玄な泳ぎにはならない。もし骨格がおかしくなっている場合でも自分の呼吸の癖に気付くことで徐々に治っていく。
この両扇りでは「蹴る力」ではなく、足を引き付ける時の水の抵抗をいかに減らせるかがカギになっている。脚を引き付ける際にもう一方の足に沿わせて滑らせるように引き付けるが、さらにいくつかコツがある。引き付ける脚と反対側の脚の付け根を、扇った後力を入れたままにしておく。これも一種の残身といえる。大殿筋だけでなく広背筋もそうする。片脚を引き付けている間、その反対側の足に力を込め、引き付けが完了したら力を抜く。「引き付ける」という動作に、直接関与する方の脚ではなく、関与しない脚の力配分を連動させることになる。これはまったく直感に反する足遣いといえる。またこの時、扇る手応えが変化するといった特別な水の感触は全くなく、滑らかに前に進んでいる感覚だけが頼りとなる。さらにこれを左右交互に、瞬時に切り替えるわけだから、難しいのは当然。「脚にひねりを加えるべきか否か」がいつも議論の的だが、水の抵抗を減らすために、扇った瞬間にきっかけ程度の回転力を与えてやるのは良いのではないか。
水の抵抗を度外視すれば、「蹴る力」が重要なように感じるが、やはりそうではなく、足首の柔軟性と両ももの「挟む力」が推進力を生み出す。「挟む力」を養うには筋トレではなく、馬術やオートバイ、スキー、スケート、馬歩が適している。足首の柔軟性は足首関節のふところの広さと、アキレス腱のしなやかさの2点が関係している。アキレス腱は人間の腱の中でも最も堅い靭帯の一つであり、普通に体操した程度では決して伸びてはくれない。最低でも1分、できれば3分以上掛け体重を上手く利用してじわじわ伸ばすようにする。青竹踏みや“ヤンキー座り”をするのも良い。
(5) 両扇りを使って立ち泳ぎの練習をする。熟練者ほど足の動きは緩やかに見える。力ではない。練習あるのみ。


注:息が苦しくなっただけではそれほど人間の体は緊張しないが、激しく身体を動かしている時はとりわけ目の前が真っ暗になる“ブラックアウト現象”を体験しやすい。この時びっくりして背中の筋肉が緊張し、一瞬息が止まったようになる。生まれて初めてこの経験をすると人間はそのトレーニングを生理的に嫌うようになりやすい。これが「恐怖心」や「水が苦手」の原因と考えられる。練習中に気絶するということはほとんどないので、目の前が真っ暗になっても構わず泳ぎ続けること。ひとたびこの要領を会得すると、いわゆる「苦手」「好き嫌い」というものがどんどん克服できるようになってくる。これは仕事や勉強などあらゆるものに応用可能。

2012年7月11日 (水)

仕事中毒、スポーツ中毒について

先日の清記流H先生の泳ぎを見ていてピンと来るものがあり、練習方法をいろいろ工夫して見ているのですが、ものすごく簡単でかつ効果のある方法が見つかり、非常に効果が出ています。いずれこちらで紹介したいと思います。


さて、「ゲーム中毒」という言葉が言われるようになってから10年位経つと思いますけれども、これらは現実ではない疑似的体験からの報酬が一種の中毒のような症状を惹起するわけで、これまでにも「そんなことが起きるはずがない」「うちの子は大丈夫」という意見が多く聞かれたものですが、モバイルゲーム隆盛の昨今、大勢の子供たちがその犠牲となるに及んで、ここへ来て急速に深刻味を増してきたように思います(とは言え、ゲーム産業は我が国が世界に誇る一大成長産業であり、中国に輸出しているほど)。

現実体験と疑似体験では何が違うのでしょうか? これはなかなか難しい問題ですけど、ひとつには労力を費やしていない、身体を使っていないということが挙げられると思います。もしモバイルゲームが労力を投入し、身体を酷使しないと報酬にありつけなかったら、これほどのめり込む人が出ることもなかったろうと思います。


もう一つの要素は「恐怖」です。


「ゲーム」と聞いて、真っ先に考えてみたいことは「罰ゲーム」という社会慣習です。バラエティ番組では必ず出て来るのが「罰ゲーム」(あるいはその亜種)です。罰ゲームを設定するとなぜか途端に盛り上がります。番組の企画自体は大したことなくても、罰ゲームが過酷で悲惨なものになると、途端に人気番組に早変わりします。ですから番組をもっともっと面白くしようとするなら、もっともっと罰ゲームを工夫して残酷なものにする必要が出て来るわけです。

どうして「罰ゲーム」があると盛り上がるのでしょうか。実は「恐怖」には刺激や興奮を増強させる作用があり、楽しさや快感さえも高める効果があり、その場の緊張感を高めるという役割を果たしているわけです。プレイヤー達は異口同音に「楽しい」を連発し夢中になっていますが、そのとき呼吸がものすごく速くなっていることに気付きません。呼吸が速くなっている時、心臓の周囲ではある種の「苦しさ」を感じています。心臓が「苦しさ」を感じていても、脳には血液がどんどん送り込まれ、むしろ快適な状態で「楽しさ」に酔いしれています。つまり、こうした状態では、実際には純粋な楽しさを味わっているのではなく、楽しさと同時に恐怖を味わっていることになるわけです。
これは一種強烈な「楽しさ」です。それまでの人生で「本当の楽しさ」を味わったことのない人はいとも簡単に「これこそが人生最高の喜びなんだ」と錯覚します。蛇足ながらこの「罰ゲーム」は手軽で大変な効果があり、指導にあたる先生方ですら、しばしばこの誘惑に負けそうになるほどです。子供たちの注意力が散漫だとなおさらです。


ここで注目したいことは、いわゆる「仕事中毒」や「得意先恐怖症」との類似性です。「仕事中毒」の人は、いつも周囲のことを気に掛けず、鼻息も荒くギリギリの予算、ギリギリの納期で仕事を切り盛りしようとします。複数のサプライヤーに見積書を提出させ、一番安い業者を探そうとします。同僚に「俺はこんなに安く調達した」と語ります。そして自分の思い描いた通りに事が運ばないと、下請けに八つ当たりします。比較優位に立てる事業部に回されると不思議と元気がなくなり、むしろ競合業者がある事業の方が燃え、生き生きとします。

自分が目標設定した数値よりも、わずかに予算オーバーしてしまう。こういうことはよくあることです。けれども、いつもいつも巧みに回避し、ピンチを切り抜けていると、いつしかそれが本当のピンチになります。なぜなら人間は学習により、いつも必死に逃げている対象を本当に恐怖するようになるからです。これが進行すると信じられないことが起こります。最終的に命を脅かす対象ばかりか、恐怖を想起させるものさえも恐怖の対象になり、それまで自分が回避していたもの自体も恐くなるのです。


こうした症状は、ゲーム中毒になった子供たちと驚くほど類似しています。きっとそこには何らかの原因があるのだと思いますけれども、本当の問題は、これが日本の年功序列的社会制度の下で毎日毎日続くということです。最初の頃はそれほど重大ではなかった「仕事は首尾よく運んだのか、それとも失敗だったのか」という問題が、次第に深刻さを増し、やがては本人にとっての「死活問題」となります。


スリルに直面している時、人間は覚醒レベルが上がり、血圧も血糖値も上がります。そうした状態の時、全身の筋肉はどうなっているでしょうか。血液中の過剰なカロリーにより、筋肉は平静時よりも強い力が出るようになっているわけですから、頚部や胴体を支えている“縁の下の力持ち”的な筋肉群は、「充分に足りている」というフィードバックを返すはずです。これが毎日毎日続けば、やがては筋トーヌスが低下し、「立っているのが辛い」「何をするのも辛い」「刺激が欲しい」という状態になるはずです。同じことが覚醒レベルに対しても生じるとすれば、「頭を働かせるのが辛い」「面白いものが何もない」「刺激的な番組を見ていないとすぐに眠くなる」ということが起こりえます。

ひとたびそういう状態になると人間は、外部から刺激的な映像・音が入ってこなくなると不思議と「やる気」がなくなり、また眠くて仕方がない状態になりますから、「何だか体調が悪いみたいだぞ」と受け止めます。そして「早くこの状態から抜け出さなくちゃ!」と考えます。ですがこれは本当は抗重力筋の筋トーヌス・血圧・覚醒レベルの最適値の調整がうまくいかなくなっているだけなのです。


これは仕事・ゲームだけでなく、スポーツでも起こりえます。「負けたくない」という思いがあまりにも強ければ、この種の「恐怖の習慣」が身に付きます。「太りたくない」という強迫観念にも似たような作用があることが考えられます。
こういう状態をスポーツ中毒と呼ぶなら、このスポーツ中毒の特効薬が武道なのだと思うのです。なぜなら武道は、筋肉を鍛えパフォーマンスを上げることよりも、神経と脳の不思議な働きに着目して練り上げられているからです。しかも、日本泳法などはヒザや足首を痛めた時に最適です。続けているうちに正座で座れるようになります。

あるいは逆に、仕事中毒・スポーツ中毒を利用して遮二無二稽古に励むのもいいでしょう。真面目で勤勉な人は必ず、早く上達します。もちろん座禅とかヨガなら最高でしょうが、この場合エゴや潜在意識が猛烈に抵抗するからです。エゴは自分の覇権が保てなくなることをちゃんと知っているのです。この、自分で自分の「エゴをだます」ということも覚えておいて損はありません。これこそが「おのれに勝つ」ということです。


武道に限らずスポーツと言えばかなり昔から「根性」と言われてきたわけですけれども、大人たちから「気合いだ」「根性だ」「頑張れ」と言われれば純粋な子供は「死に物狂い」になって頑張ろうとするのではないでしょうか。そしていつの間にか「それ」なしには生きられない状態になっていくわけです。そして本人は何が何だか分からず、「代わりになるもの」を求めて転々とする…。


こうしたことも人間の学習本能の成せるわざです。ところが本来の武道には、こうした学習本能の弊害を克服する力があったわけです。しかも「立つ」「座る」「歩く」という日常の基礎運動の“縁の下の力持ち”的筋肉群を養う動作がちゃんと含まれていたわけです。武道に「他人と競い合う」という要素が少ないのはたいへん理に適っていたことになります。しかも一つ一つの技は習得するのに永い年月が掛かるようなものばかり設定されています。短期的な熱意や気合いでは到達できないようなものばかりです。
「立つ」「座る」「歩く」を報酬・対価を必要とする回路・神経群に行わせていると、次第にその人は様々なことが億劫になり、何でも見返りを要求するようになっていきます。考え方もがめつく、唯物的になっていく傾向があります。


一般には「武道」という硬派な言葉の響きから「気合い」、「根性」を連想する人は少なくないと思うのですが、奇妙なことに伝統的な武道には本来こうした感情的な要素というのはほとんどなかったと思われるのです。むしろ芸能や音楽の修業に近いといってよいぐらいで、武道にゲーム的な要素が増えてきたのは比較的新しいことだったと考える方が自然なのです。

またこれまで学者さん達がこうしたことを採り上げてこなかったこともちゃんと理由があります。それは、「ある」ことを立証するのはたやすいが、「ない」ことを立証するのは不可能に近い(「ない」ことを立証するには考えられうる要素をすべて調べ上げる必要があり、時間が掛かりすぎて現実的でない)ということがあるからです。


いざ、無心。

2012年6月19日 (火)

まだまだ煽りが弱い!!

都内某所にて都内各研修会合同で泳ぎ合わせ練習会が開かれました。先生曰く、今年春に開かれた泳法指導の際、「煽りがみんな弱い」とのご指摘を受けたとのことでした(ちょっとショック)。日本泳法というのは、もともとは立ち泳ぎをしながら船周りの仕事をしていたのだから、「手は仕事をするため、脚は泳ぐため」という気持ちで稽古しなさいとのことでした。足腰の鍛練の絶対量が足りないということです。


これと似たような言葉を、私はかつて耳にしたことがあります。ある学術的な記念講演会で、すでに退官された教授が、発表の後、現役の研究者・学生に向かって、「本を読む絶対量が足りません」と付け加えたのです。
普通は誰か過去の偉人の著作を読んで、何とかしてその人の理解に到達したいと私達は考えます。けれども、この教授の見解は意表を突くものでした。その偉人と同じぐらい本を読みなさい、というのです。
考えてみればどんな分野でも学問はどんどん発展していますから、それらを発展的に理解しようと思えば、世代が下がるごとに読む本や論文の量が増えていくのは当然であります。
泳法もこれと同じかも知れません。せっかく冬でも練習ができるようになったのだから、これを機にどんどん積極的に泳ぐことで、何か会得できるものがあるのではないでしょうか。


「型をまねすることは大事だが、それ以上に練習量も見習いなさい」という教えは、私達の胸に鋭く突き刺さります。だいたい周りから「熱心ですね」と言われると気持ちも緩んだり、あるいは萎えたりします。それを意に介さずに黙々とやるべきことに集中するわけです。もしかすると天才と呼ばれる人達は、こういうところが違ってるのかもしれませんね。


さて、今回は「肩指」に的を絞って泳ぎ合わせが行われました。なかなか熱の入った指導でした(ありがとうございます)。横体系の游ぎは向井流では脇役的存在ですが、最も他流派と比較されやすい游ぎでもありますので、力強さだけでなく、他流派に美しさの点でも負けないように精進したいところであります。


今回ひとつ発見したことは、先手を進行方向に向かって一直線に伸ばしていくということです。ということは必然的に、最初に身体の中心線になるべく近付けてから伸ばしたほうがいいということになります。こうするともちろん、「伸ばそう」と思わなくても“ひとりでに”手は中心線の延長線上を等速直線運動で伸びていきます。この不思議な働きは2つの働きが組み合わさって機能していると思われました。
ひとつは手が外延中心線(ストリームライン)から外れないように維持しようとする働きであり、もう一つは手首に感じた手の流水抵抗を錐体外路系が陸上における「手の重さ」と錯覚して、水圧と正反対の向きに「押し出そう」とする働きです。

これを積極的に活用すると、もはや「どんなふうに手を動かそうか」という理性の働きは不要となり、その分を下肢や呼吸に振り向けることができます。「こころ手先にあらず」と言えるかもしれません。

先手を伸ばしていく時に指先が中心線上にあると、足の煽りが多少曲がっても、胴体がぐらつくことが少なくなり、結果的に効率的な煽りができるようです。

考えてみればこれは当然のことです。舟が進行方向を向いていないのに全力で掻いてもジグザグに進むだけで力は無駄になる。人間の胴体も舟と同じだと考えれば、何よりも先ず肩と腰の位置を整えてやることが重要だということになります。そうしてみると先手が舵の役割をしているのですから、目立たない存在ではありますが先手は決しておろそかにはできないと考えられます。

ということは、どういうふうに足を煽ろうかと試行錯誤するよりも先ず、第一に胴体のストリームライン(鎖骨と骨盤)を確保し、その上で足遣いを修正していくのが、一見遠回りのように見えるけれども実は近道なのだということになるのかも知れません。


今回は足腰を鍛えるための「足だけで泳ぐ」練習方法を伺いました(横体系・平体系の数種類)。ジョギングやウォーキングやスクワットがあるのだから、何もそんなことしなくてもと思いがちですが、モンゴル・中国・韓国・日本の民族は寒冷適応で足が短くなってしまったという経緯があり、ウォーキングですら関節を傷めてしまうことが良くあります。そういう意味でも水中でのトレーニングは非常に効果的だと思います。

弱点を指摘されてもグサッと来ないよと言ってしまうとウソになりますけど、先生方にズバリ指摘してもらった方が、たとえその時はがっかりしたとしても、その後の稽古の身が入ります。今回もよ〜しやるか〜というモチベーションが沸いてきたのでありました。

2012年6月16日 (土)

神伝流体験——2回目

先日、都内某所にて、神伝流の体験会がありました。

前回は横体系の游ぎ方「真」「行」、「二段伸」、「三段伸」中心でしたが、今回は正面を向いて游ぐ平体系が中心でした。
「片手抜」「諸手抜」ともに上下動がなく静かな游ぎに見えるのですが、実際にやってみると非常に体力・技術の必要な荒技だということが分かります。一見すると腰が浮いているように見えますが、実はこれは脚力で腰を浮かせ、上下しないように巧みにコントロールしているのだそうです。腰の位置は成り行き任せではなく、精密にコントロールした結果だというわけです。


圧巻は何といっても游ぎ方「草」でした。型を重んじ、美しく力強い游ぎを目指す日本泳法にあって「草」とはこれいかに。もとより「真行草」などというのは、一般の人間がやたらに口に出すべき言葉ではないのかもしれません。それほどまでに理解するのが難しく、また游ぐのも難しいということなのでしょうか。

当日配付されたテキストを見てみることにしましょう。

此の游方は其の様如何にも静かにして、心体ともに寛やかにして柔かなるを肝要とす。極草の游方をさして滄海一心の位といふ。此の游方一つより出でて変化活用窮りなきに至る。
先師に於いても草の游方を指して当流の極意とすと云はるるほどの游方なれば意味の深きこと言語に述ぶる事能はず。唯其の手順を云ひて止むなり。
〔訳〕この泳法は外見はいかにも静かに見え、心は寛ぎ、身体も力みなく柔らかく泳ぐことが重要である。「草」の究極の姿は「滄海一心の位」と呼ばれる。形態も応用範囲も無数にある。先達が「当流の極意である」と言うほどに深遠なものであるが、それを言葉で言い表すことは不可能である。ただそこに至る手順だけがかろうじて教えられるにとどまる。

この游ぎ方「草」でピンと来たのが「総体やはらか」と形容される宮本武蔵の構えです。
宮本武蔵の究極の構えが、これという「型」のない構えだったと言いますが、これが妙に「草」とイメージ的にダブるのです。

この游ぎ方は神伝流独特のものであり、また意外なことに高波を凌ぐのによいと伝えられているそうで謎に満ちた游ぎです。

2012年6月 9日 (土)

文武両道——筋肉の6感覚

数年前自殺者や重傷者が出たことで明るみに出た、自衛隊における日本版ブートキャンプ。これは新入隊員が生命の危機を感じるまで殴る蹴るを加えるというもの。最もこれは本人が「もう駄目だ。俺はもう死ぬ」と自覚するまで続けられるわけですから、アメリカのそれとは比べ物になりませんが。
単なる陰湿な暴力事件に過ぎないわけですけれども、こうしたことが旧陸軍時代からずっと続いてきたという背景には、どこかでそういう話を耳にしたことがある、とか、俺はやった、やられたなどという一種の武勇談がささやかれていたのではないかと想像します。これなども想像するに、もとは別な理由で死ぬほどの暴行を受けた人が、急に様々な能力が開花して以前とは見違えるような人物になった、という出来事がかつてあって、そうしたことが最初のきっかけとなってこのような不思議な慣習が生まれたのかもしれません。


脳科学者によれば脳には「視床」という領域があって、この視床は全身からやって来る外界・内界に関する膨大な情報をフィルタリングし、本当に必要なものだけを意識上にもたらして、意識が忙殺されないようにしているのだそうです。この膨大な情報が無意識に相当するというわけです。

視床にやって来る情報がどれほど膨大かということは、視覚情報を処理する領域が脳の中でも圧倒的な広さを持つわけですが、その目のキャッチした膨大な光信号が、最終的な映像となるまでに視床・視覚野・海馬といった複雑な処理を経て1千分の1、あるいは1万分の1と削減されているわけですが、それでもしばしば人間は見ている映像に釘付けになり、気を取られて注意力が殺がれてしまうということを考えて見ても想像できそうです。

そして情報を意識上にもたらすかどうかの基準は、基本的にそれが「生死に関係するかどうか」なのだそうです。ただしこれは生まれてから後の教育や訓練によって様々に開発されうるものです。ですから職人・達人と呼ばれる人たちは、その職業に関する知覚情報を積極的に意識上にもたらす特徴的な回路が出来上がっていると考えられるわけです。もしかすると殴る蹴るの暴行を加えるということは、何かそうした回路を新たに造り出すきっかけになっているのかもしれません。


筋肉には動かしている神経、つまり遠心性線維のほかに、それらをフィードバックするための神経、求心性線維が基本的に全て備わっています。筋収縮に関する情報を送り出しているわけです。すでに情報をキャッチしているのだから、そうしたものを何らかの形で意識が利用することは不可能ではないわけです。脳科学者は「筋肉も一種の受容器である」と言います。

例えばバランス感覚を考えてみましょう。人間は四足歩行ではなく二足歩行ですから、歩く時身体のバランスをとりながら歩いています。直接バランスを感知できるセンサーが備わっていない以上、バランス感覚という感覚を構築する要素となっているのは、やはり筋肉の感覚しか考えられません。また目をつぶっていても、手や足はきわめて正確に必要な場所に伸ばすことができますし、また誰かに腕を持ち上げられた時に、自分の腕がどういう位置にどういう恰好で存在しているのかを把握することができます。これらもやはり筋収縮の感覚から構築された複合感覚です。この2つの複合感覚、位置感覚と方向感覚、そしてさらにいくつかの特定の筋肉の収縮状態を統合すると、第3の複合感覚であるバランス感覚が生み出されると考えられます。

こんなふうにして段階的に、人間には様々な複合感覚が備わっていきます。職人さん達の中には材料を手に乗せただけで、数を数えないでその数をぴたりと当てることができる人がいます。様々な部位の筋肉の、様々な収縮状態が脊髄内で統合され、さらにそれが脳で統一的に構築されて初めて生まれる感覚であります。

ここで言う複合感覚とは、通常の「五感」を利用した複合感覚ではなく、目・耳などの専門の感覚器官を利用しない感覚という意味の、純筋肉複合感覚です。つまり生まれた時は備わっておらず、後天的に獲得する必要があるという意味での“複合的感覚器”です。それらの情報は、元をただせば単なる筋肉から送られてくる信号の集まりです。いうなれば6番目の感覚、シックス・センスが(SFで言われるように)たった1つではなく、沢山あるということになるのでしょうか。

これはそれまでその筋肉本来の仕事をしていた筋肉が、言わばサイドビジネスをやるようになって、例えば耳では拾えなかったはずの低周波を「聴く」ためのパーツになるなど、本業をはるかに上回る業績を上げてしまった、といえるでしょう。

生物学的に見たそれぞれの筋肉の固有の役割というのは、人間的能力開発のバックグラウンドであり、そうした生物的下地を遺伝子に載せて運び、保存しなくてはならないという目的のために、それを失ったら生きていけなくなるという必然性を最後の砦として、辛うじて命脈を保って来た“一時的出向先”なのかもしれないと、想像を膨らませることもできそうです。


ただ、そうした達人的能力を身に付けるのに、「荒行」や暴力が不可欠だと考える人がまだいるとしたら、それは大変悲しいことです。科学者とスポーツマン、職人、武道家が力を合わせて、次の世代のために、ぜひとも解明しなければなりません。


ところで、プロスポーツ選手やダンサー、熟練した職人達の、驚くべき才能を分類してみると、おおまかに次のような特徴が浮かび上がってきます。

1. 位置感覚:四肢の位置を知る感覚
2. 方向感覚:四肢の骨の向き・角度、また手で握った物体の方向を知る感覚
3. 平衡感覚:胴体・頭部の平衡の状態を知る感覚とそれを維持する能力
4. 圧力・抵抗感覚:四肢に力を加えたときの手応え、抵抗を感じる感覚と力加減を精密にかつ自動的に制御する能力
5. 荷重・加速度感覚:手に持った物体の静止荷重、および重力変化を感知する感覚と物体の運動に身体を追随させていく能力
6. 振動感覚:皮膚・毛根・筋肉に伝わる振動を並列処理し、「音色」として聴く能力

なおシックスセンス(sixth sense)が6個でシックスセンス(six sense)となっているのは単なる偶然で、深い意味はありません。

これらの中には右半身だけ、あるいは左半身だけを特異的に発達させられる感覚もありますが、左半身右半身ともに必要な条件が満たされないと生まれない感覚もあります。ですから宮本武蔵の二刀流も、そうした意味では大変理に適ったものだったのだと言えるかもしれません。

こうしてみると、これらの感覚は概ね日本人がかつて得意としてきた能力であり特徴でした。町のあちこちに、そういう人はいたわけです。江戸時代の大工さん、今だったらスーパーマン?かもしれませんね。


欧米文化に対して感情的に反発する人が現れたり、大和民族が世界で最も優れた人種であるという説に単純に飛びついてしまう人が現れるということが、意識と無意識との橋渡しである「視床」という側面から見ると、容易に納得できることです。これらは、「成長したがっている肉体の感覚の表出」だと捉えることができるわけです。もちろん、無意識の現れですから論理的に考えると必ずどこかにおかしな部分を含んでいます(これは経験に基づくもので、なぜそうなるのかは解明されていない)。けれども、それらは常に必要な時にタイミング良く出ます。もちろん、感情を伴うこともあります。ものすごく理不尽な怒られ方をして、その時は逆ギレしそうになったけれど、その時怒られなかったら、その後重大な失敗を犯していただろう——ということは良くあります。


歴史的に見ても、こうした肉体的成長という観点は、様々な出来事を大変うまく説明できると思います。
そうした事実を受け入れるのか、それともこれまで通り感情的に反発・葛藤を今後も継続していくのかは、大げさではなく民族にとっての大問題です。

もちろん「受け入れない」選択の方がラクです。その方が、これまでの自分、これまでの生き方を否定しなくて済むからです。これまで通り生きればいいわけです。

けれどもひとたびこの事実を受け入れれば、人間が腹を立てたり感情的になるということの本質は、これらの複合感覚が妨害され、あるいは不完全に処理された時に現れる特有の感覚なのだということが分かってきます。人間にはこれらの複合感覚をできるだけ維持しようとする機構も備わっていますが、複合感覚は構成している筋肉と骨に、ある一定の構築状態を必要とします。

この、不都合な事実を、受け入れるのか受け入れないのか、ただそれだけです。なぜ殿様は「苦しゅうない」と言ったのか、なぜイエス・キリストは「神殿を壊してみよ」と言ったのか。そしてまた、たくさん食べても太らない人がいるのはなぜなのか。なぜ教室や職場で、必ず怒られる人と怒られない人という区別が出来てしまうのか。なぜ自分だけ、いつも不幸な目に遭うのか。人間だけが「美しい」と感じるのはなぜなのか。


武道は全身の筋肉を整えてやるボディワークと見ることが出来ます。筋肉と骨(骨法)が整えば人間本来の感覚が目覚めるはずです。そうすると武道とはセンスを磨くこと、そういうことになるのかもしれません。


近年の脳科学の発達により、脳の不思議な働きがいくつか見付かってきています。今まで「謎」とされてきたことも、脳の中のちょっとしたトリックの解明によって、「なーんだ、こんなことだったのか」と正体が暴かれる、そんな日も近いのかもしれません。

2012年6月 6日 (水)

清記流

清記流という12流派以外の隠れた一流派があるそうで、先日師範をお招きして勉強会が開かれました。

まず流派の名称ですが、これは開祖ともいうべき臼杵藩士稲川清記の名に由来するそうで、耳慣れない名称なのも頷けるところです。

最終的に発展した地域は金沢(石川県)であり、現在もそこで活発な活動・保存が行われているとのこと。

泳ぎ方の特徴ですが、まず、神伝流の流れを汲んでおり「真行草」の考え方を受け継いでいるのですが、一致していないというところが面白いところです。例えば草体は横泳ぎ、真体は斜横体、行体は立ち泳ぎに割り当てられています。

泳法は全体的に実用本位のものとなっており、海での護身的な役割を重視したものだと思われます。実用的な遠泳用平泳ぎもあり、一見すると普通の平泳ぎのように見えるのですが足が煽り足になっており、簡単に覚えられてしかも相当推進力のあるこの泳ぎ方は、スポーツセンターのプールなどでも誰でも手軽に行えるので、もっと大勢の人に知ってもらいたい泳ぎ方だと感じました。
また、強力な立ち泳ぎもその特徴で、重い旗竿を縦煽りのまま振るというのですから驚きですが、実際拝見したところ、やはり非常に難しい足使いを極めて正確に行い、上下前後左右の揺れのない見事な游でした。

革靴とコンクリートの生活にすっかり慣れてしまっている今の日本では、これほどまで見事に縦煽りの立ち泳ぎを泳ぐ人も数少ないと思われますので、ぜひ若い世代から継承する人材が現れて欲しいと感じました。

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